平泉 仏国土を表す建築・庭園及び考古学遺跡群 世界遺産2011年登録
平泉中尊寺 金色堂を護る新覆堂
牛若丸こと源義経は、幼少の頃京都の鞍馬寺で中国の兵法を学んだされ、1185年壇ノ浦の戦いで活躍し、平家滅亡の立役者になり後白河上皇から位と役職を授かる。逆にそれが原因で兄・源頼朝との関係が悪化し、腰越状を頼朝に送り身の潔白を訴えるが、それも実らず、奥州藤原氏の3代秀衡(ひでひら)の庇護を受け、平泉に身をよせる。若い頃平泉を訪れ、幼少の頃から父親とは無縁に育った義経は、秀衡を父のように慕っていた。3代藤原氏の秀衡が没すると4代泰衡がその地位に就く。すると泰衡のもとに頼朝から、「義経を討たなければ平泉を攻める」と書状が届く。一方、父秀衡には義経と平泉を守れと言われていたため、迷いに迷った泰衡だったが、平泉を守るために義経を攻め、義経は中尊寺にほど近い高館義経堂で、まず自分の妻子を殺し、自害した。しかし、義経の死後間もなく、平泉は頼朝に攻められ、泰衡(やすひら)は命を落とし、ここに奥州藤原氏は滅亡することになる。奥州藤原氏三代の遺体は金色堂の須弥壇に安置され、四代泰衡(やすひら)は首だけが須弥壇に葬られた。理由は不明だが、焼かずに漆に金箔を貼った棺に入れられた遺体は腐らずにほぼ人間の形を今も保っており、現在でも須弥壇に置かれている。ここまではほぼ史実。
毛越寺本堂 義経が最初に訪れた地
ここからは伝説。自害したとされる義経は、追っ手から逃れモンゴルにわたり、チンギス・ハンとして中国を治め、兄・頼朝を討つべく軍隊を差し向けたのが、あの元寇だった!大正時代に学者が実際にモンゴルまで調査に行き、その本も執筆されている。
平泉中尊寺 本堂